朝、目覚めると僕は農夫になっていました。
「へのへのもへじ」顔の妻にけたたましく起こされ、弁当をもたされ、
僕は「しらない」畑へと出かけました。畑は気が遠くなるほど広々とどこまでも続き、緑が例え様もないほど美しく冴え渡っておりました。水田には空が深く映し出されており、僕はひとときため息混じりにその風景に浸っておりました。
なんの畑かわからない「よくある」畑の傍らで空を眺めていると、東の方から緑の波が打ち寄せ、僕はようやく正気になりました。
「ああ、これからこの途方もない畑の世話をするというのか・・・。ここには一体どんな作物が植えられているのかも全く検討もつかない・・・。
どうしたものか・・・。」
ふと、辺りを見渡すと、左側前方の方に一人、男らしき姿が見えてきました。その男は遠くから見たところ、少し腕が不自由そうでした。
「そうだ。あの男にきいてみよう。」
腰まである草の根をわけて、僕は一生懸命泳ぐように男に近づこうとしました。男は三角形の笠を頭に深々とかぶり、顔は全くみようにもみえません。
よくよく、見ようとすればするほど顔は太陽の逆光で黒々と深くみえません。
「ねえ、そこの君。君はここでなにをしているのかい??」
男は笠を上にずらすように、頭を左右に軽く揺すりました。
それでも笠があまりにも顔を覆っていたので、頭を後ろにひき、顎を突き出すような格好をして僕をじっとみつめました。そして、生意気そうにこういいました。
「ぼくはここで鳥追いをしているんだよ。」
「鳥追い?」
「そうさ、鳥を追い払っているんだ。それより君は人にものを尋ねるより前に普通名乗るものだろう?ぼくにだれか?って聞かないのかい?」
そうだね、すまなかった。という素振りをして、僕はその奇妙な男に名乗り、名前を聞きました。
「僕はクニヒコというんだ。君は?」
男は微笑んだようにみえました。・・・ようにみえたのです。
「へー、にてるね。僕は昔から“クエヒコ”と呼ばれている。」
へ?という顔をした僕をみて、“クエヒコ”と名乗ったその男は、
「代々僕らはそう呼ばれているんだ・・・。」
「え?僕らって、みな同じ名前なのかい?」
「そうだよ。あたりまえじゃないか。僕ら仕事の名前がそのまま自分の名前なんだ。」
クエヒコなる者がそう応えると、どこからともなく風が巻き込んできました。
彼の“不自由な両手”は息吹を吹き込まれたようにしなやかに動きました。それが風のせいなのか、彼の性質上のものなのか、よくわかりませんでしたが、最早、クエヒコの両腕は「不自由」ではありませんでした。「動くこと」がかないそうもなかった足元もしっかりと大地から離れ、自由になっていました。
僕はこのとき、そんな奇妙で不思議なこともクエヒコの存在の確かさから、「他愛のない」ことのように思えてました。先ほどまでの彼の姿は照りつける太陽のもと、陽炎がたって、ゆらめいてみえた「存在」だという気がしてました。
なにせ、クエヒコはこの途方もない大地に唯一ある「オアシス」のようなものでした。
「この世界」ではじめて対話をもった相手であることに違いもなく。
僕はクエヒコにひとつ提案をしました。
「ね、クエヒコくん、きみが代々同じなまえで、君と同じような仕事をしている者が同じ名前であっても、僕は君に別なあだ名をつけて呼んでもかまわないかい?」
「え?」
クエヒコは驚いたように聞き返しました。
僕にはなぜか彼を自分にとって特別な存在にしたい、という意識が生じていたのです。
「そうだね。君のあだなは・・・はやて、というのはどうだろう?」
「え?はやて、って?」
「さっきね、君が風に気持ちよさげになびいていたからさあ。
疾風って感じの風がふいたんだ。きみの穏やかな感じとは違うけどね。
どうだろう?疾風のあとはさわやか、なんだ。」
クエヒコはとても嬉しそうに、
「いいの?僕はこれからは“はやて”って、よばれるの?」
彼の表情はどんどん豊かになっていきました。
「僕、から、そう呼ぶよ。」
はやて、はまたもや、突風に包まれ、身体をしなやかに揺すりました。
「ところでね、はやてくん。」
はやてははにかんで、
「ちょっと、くすぐったいね。」と顔をそむけました。
「そうかい?はやてくん。はやてくん。・・・・これで慣れただろう?」
そうだね。という素振りをしたはやてに、ようやく僕は本題を切り出しました。
「僕はこの畑になにが植えられているか知らないんだ。あと、何をどうしていいのかもわからない。」
はやて、はびっくりして、
「ここはくにひこの畑じゃないのかい?」
「そうらしいんだけど、ぼくにはそうした・・・記憶がない。僕は昨日までは普通のサラリーマンだったんだから。」
はやては不思議そうに、
「じゃあ、クニヒコの名前は“サラリーマン”だったの?」
へ?ちがうよ。という風をして、
「僕の仕事は普通のサラリーマン。会社員だったんだ。」
「へ?会社員という名前ももっていたのかい?」
なにか、が違う。はやての世界観にはそうした言葉がない、のだということを知りました。僕は気を取り直して、
「僕はまったく違う人間だったんだ。とにかく、ここで畑を耕すのは今日が初めてってことさ。」
はやてはにっこりと微笑みました。
「なんでもいいや。クニヒコと僕は出逢えたんだから。
君は田の神様に選ばれたんだよ。田の神様は僕がいつもさびしそうにしていたからきっとご褒美をくれたんだ!」
はやてがあまりに嬉しそうなので、まあ、いいや。という気持ちになっておりました。はやては、それじゃあ、と張り切って、
「田の神様にお礼にいってから、畑の作業を教えてあげるよ。
難しいことではないからすぐに覚えるよ。」
僕らは「田の神様」という山に向かって、お礼をしました。
驚いたことに僕はここにずっといてもいいなあ、という気持ちになっており、決して、もとの世界に戻してくれ、などというお願いはしませんでした。
はやてはそうした僕をとても穏やかにみつめていました。
「田の神」さまにお参りをしたあと、僕らは丁寧に作物の虫取りをしました。
「ねえ、はやてくん、ここはなんの畑なの?」
と聞いてもはやてはにっこり微笑むばかり。それでもあまりに僕が聞くものだから仕様がないなあ、とこう教えてくれました。
「クニヒコ、いいかい?ここになにが植えられていてもたいして僕らの作業は変わらない。一生懸命、こころから世話をさせていただくのだよ。」
「そりゃあ、そうだけど。」
不服そうな僕をはやては、
「そりゃあ、今はわからないかもしれないけど、一生懸命育てたら、きっと何ができても君は幸せになるよ。そういうものなんだ。田のかみさまの子供だから、ね。」
はやては何でもよく知っていました。
いろいろ無駄口を叩きながら、僕らはとてもいい時間を過ごしました。
もちろん、はやては鳥追いもしていました。そうしながら、僕の作業も手伝ってくれたのでした。
「ねえ、はやてはなんでもよく知っているんだね。」
僕はふとはやてに声をかけました。すると、彼は、
「え?クニヒコはおかしなことをいうね。あたりまえのことしか知らないよ。
自然なこと・・・なんだ。」と応えました。
「自然って?」
「神様だよ。神様は自然そのもので、あるがままで、すべてに命をあたえてくれて、すべてのものを育ててくれる。だから、ぼくらは働くことができるんだ。
僕らはほんのちょっとそのお手伝いをしているに過ぎないんだ。」
「でも、君のその知識は、神様に教えてもらったわけではないだろう?」
なにをいいだすんだ、クニヒコ。という顔をして、
「自然をみていれば・・・眺めて、 、聞いて、感じるんだよ。観察して、なにか考えるんだ。そうすると、すべての答えは自分が疑問に思った瞬間にそこにあるんだよ。」
「それって?」
山や谷やそこに流れている川、道、そこに行き交う人々、すべてのあり様に様々な応えがある。応えは「出逢うこと」なのかもしれない、そんなようなことをはやては云いました。
「クニヒコ、ね、君には神様がみえる?
遇ったことはある?君が会いたいと思えば、神様はいつでも会いに来てくれるよ。クニヒコ、神様ってそんなものだよ。」
はやてはあたりまえのようにそういいました。そして、僕が神様に「会っていない」ことも彼は知っていたようです。
「わかったよ。はやて。なにかわかったような気がするよ。」
それはよかった、と彼はいいました。そして、僕らの対話を微笑んで聞いてくれていた陽が暮れようとしていました。
「さあ、そろそろうちにかえらなきゃ。はやては?」
はやてに声をかけると彼はでくの坊のように全く動きません。彼は自分の仕事を終えて、もとの「クエヒコ」に戻っていたのです。そうか。君はそうだったんだ。「クエヒコ」とは「案山子」のことだったのです。小さい頃に聞いたことがあったような気がしました。でも、すっかり忘れていました。
僕は自分の家らしき、家に戻りました。
「へのへのもへじ」の妻はもうすでに「へのへのもへじ」ではなくなっていました。僕の感性はたった一日の畑作業のおかげで、「はやて」のおかげで、人の微妙な表情を読み取れるようになっていたようです。
穏やかで慎ましやかな「妻」という人はほんのすこし、唇の両端に笑みをもたせて、
「おつかれさまでした・・・。暑かったでしょう・・。」
言葉にならないことばをかけてくれました。僕は再び目覚めました。
「ねえ、早く遅れるわよ。会社。さっさとして!時間がないんだから・・・」
こちらの世界の「妻」は時間に追われていました。
けたたましく。
★ ★ ★
それから幾度かの夏を過ごし、僕は自分の息子とたったふたりで、田舎に出かけました。「田舎」といっても自分の育った田舎ではない、母が生まれ育ったという母の「ふるさと」でした。
僕はそこでまた「彼」に思いがけず出逢ったのです。
「彼」は田んぼの真中で田んぼを守っておりました。
「へのへのもへじ」顔で。
どこにいっても、最近は「案山子」の姿など殆ど目にしません。
「クエヒコ」がそこにいるだけで僕は感傷的になってしまいました。
懐かしさと、息苦しさで彼がよく見えませんでした。
「おとうさん、どうしたの?泣いているの?」
僕は息子に昔出逢った「はやて」のことを話しました。
彼は僕の感傷をどこまで理解してくれていたかはわかりません。ただ、「よかったね。よかったね。」と父親の背中をぽんぽん叩いてくれました。
そんなところへ、地元のこどもたちがやってきて、息子に一緒に遊ぼうと声をかけてきました。
「いっておいで。おとうさんはここにしばらくいるから。」
息子はうれしそうに彼らといってしまいました。
僕の目の前にいる「クエヒコ」は決して「はやて」ではないのに、なぜか、「はやて」のような気がしてなりません。近くに寄ることもかなわずに僕はただ彼を見守っていました。
やがて、再び陽が暮れようとしておりました。
遠くから、「おとうーさーん・・・」とよぶ、息子の声がしました。
僕は振り返り、手を大きく振りました。
稲の波の向こうから彼はまるで泳ぐように駆けてきました。
息子はうれしそうに駆け寄ってきて、
「ねえねえ、僕、今日いろんなこと、勉強したよ。
自然、ってすごいね。神様ってすごいね。」
僕は不思議と息子に感謝していました。誇りにも思いました。まるで「はやて」に出逢っているかのようだったからです。
「あとね、すごいんだよ。おとうさん。僕、友達、さっきなったばかりの友達なんだけどね、きいたの。
なんだと思う?あの、おとうさんの眺めている案山子、あの案山子って、昔から“はやて”って、呼ばれているんだって。あの案山子だけなんだよ。
だから、壊されなかったんだって。名前がついてるから。
壊せなかったんだって。“はやて”って、おとうさんが名前付けたんでしょ?」
そうだったのか。やっぱり、「はやて」はいたんだ。
一層、息苦しさが涙とともに心から染み出してきました。
「君、だったのか・・・」
すると、一瞬風がすーっと「クエヒコ」のまわりを取り巻き、彼が微笑んでいるのがわかりました。
頭を後ろにちょっとずらし、顎を前につきだし、ちょっと得意そうに、「はやて」が「自由」になった瞬間でした。
「ね、ね、おとうさん。“はやて”って、生きてるみたいだね。今、おとうさんに笑いかけたよ。ぼく、みたよ。」
息子は興奮して、僕を揺するようにして、そういいました。
「君も“はやて”に出会ったんだね。出逢えたんだね。よかったね。」
僕にはそういう言葉しか、もう出てきませんでした。
僕は時折、夢を観ます。
黄金色の波が腰まで押し寄せる、
その村の、穏やかに微笑む「はやて」の夢を。
おしまい。