蒸し暑い夏だった。積乱雲がむくむくとまわりの雲を巻き込み、他の風景を一層青く輝かせていたのをよく覚えている。
わたしは山形県朝日村を目指して出かけた。その年、恒例の「民俗歌謡研究会 夏の採訪合宿」は朝日村字田麦俣というところだった。
青函連絡船に乗り込んだのは11時を過ぎていた。青森に到着したのは明け方。どこの店も空いていなく、仕方なく場末の映画館に身を寄せた。まるで演歌の舞台になりそうな町の風景が拡がっている。
誰もいない映画館はどうやって営業しているのかと思われるほど、切なく時間が過ぎていく。映画は「寅さん」だった。
しかし、殆ど寝る暇などなかったわたしは席につくや、まもなく眠ってしまった。
結局一回半ほどまわされたフィルムもわたしにはただの眠る「装置」でしかなかった。
目覚めたときには客がまばらに座っていた。
8時を過ぎ、山形への電車がそろそろ出始める時間になっていた。
夏ばてか、寝不足か、重たい身体を起こし、駅へと向かう。駅には連絡船にのっていた他の大学の学生がそこにいた。
彼らのひとりが「あれっ?」という顔をして私をみる。
「きみさあ、さっき連絡船でいっしょじゃなかった?」
「はあ。」
面倒くさげに応える。
「ぼくらさあ、北海道へツーリングでいってきて、これから関西へ帰るところ・・君らは?」
朝から元気である。
「はあ。これから、山形へ。」
「へ?山形?渋いねえ。帰るの?」
渋くて悪かったね、遊び、じゃないのだ。ちょっと、むっとした。
「山形は旅行先です。」
そうしたところへどこから沸いて出たのか、一緒に採訪へ出かける友人Aが現れる。
「ああ、小枝子じゃない。よかった。もういっちゃったかと思ったんだ。」
友人Aは雅代、だった。日は明けているものの、気だるさか、空気が澱んでいるのか、顔がはっきりみえなかった。
「小枝子と雅代じゃない?」
続いて現れた友人Bは佳代だった。逆光、か。
今度は別な方向からやってきたから、すぐに認識した。
「連絡船で来たの?」
わたしは二人に尋ねた。
「ううん、わたしは青森、地元。」
佳代が応える。
「わたしは昨日のうちに来てたんだ。しっかしさあ、なんにもないね。ここ。」
雅代はつらっとした顔で元気そうだ。
「なんにもないのは、ここに限ったことじゃないでしょ。
わたしたちはもっとなんにもないとこへいくんだから。」
そりゃ、そうね。
二人がくすっとした。わたしは笑える気分じゃなかった。
「ね、ね、君たち知り合いだったんだ。」
先ほどの軽そうな男たちが話し掛けてきた。雅代はまんざらでもないらしく、受け答えをしている。
「わたしたちね、これから大学の合宿なの。で、山形。あなたたちは?」
男のひとりがしゃべりだした。
「いや、今も話してたんやけどな、ツーリングで北海道いってたんや。いやあ、大自然、よかったわあ。いやな、わいらも今知りおうたとこや。な。」
雅代の反応にすっかり打ち解け、彼らは関西弁で話し始めていた。
「そうそ、わてら、たったさっき知りおうたんや。わては柾、いいますね。」
一人が自己紹介をすると結局みんなすることになる。それぞれが自己紹介をした。もうひとりの男は「俊」といった。ふたりとも大学2年でわたしたちより一つ上だった。
結局、わたしたちは「鶴岡」まで同行することになった。
「青春18きっぷ」という切符があることも彼らから学んだ。
たわいのない話をしている。作り笑顔が疲れてきたころ、「鶴岡」に到着した。
「じゃあ、元気で。」
雅代はその後も「柾」と遠距離恋愛をすることになり、佳代もまた「俊」に心奪われていた。「恋愛番組」よりずっと高確率である。
「鶴岡」からバスに乗り、ゆらゆら坂道を登って、山をうねうね走る。
カーブのところで幾度か他の大型トラックやバスとすれ違い、落ちるかとひやひやさせられた。道がものすごく狭い。すれ違ったところで、車中に拍手が起こる。
バスの運転手の腕前は確かにすごかった。かっこいい、と思った。先ほどの軽い男達よりずっとまともである。
安心して身を任せられたのでバスに弱いという佳代も酔わずに済んだようだった。
暫く揺られる。こんなところに人が棲んでいるのだろうか、と何度思ったことだろう。
最終地に着く。土の匂いがした。
どこか懐かしい響きをもった「田麦俣」。田麦俣にはいくつも、いろんな畑が拡がっていた。こんな山の中まで切り開いてしまうヒトという存在はすごい、と改めて感じた。
「田麦荘」という旅館まで宿の人が迎えに来てくれて、宿についたのは夕方。先生方は一足先に到着していた。すっかりくつろいでいるところへ現れる。
「先生。ただ今、到着しました。遅くなってすみません。」
江戸っ子の先生が応える。
「いえねえ、もう、やってましたよ。君ら、が来るまでね、待ちきれなくってねえ。」
研究会のメンバーのうち、参加者は14、5名というところだった。
「それでは、早速食事にいたしますか?」
幹事の葛原が音頭をとる。
「いいねえ。早く、いこうかねえ。まちくたびれちゃったよ。」
いい気なものである。すっかり出来上がってしまっている。
山形の地酒は「初孫」というラベルが貼ってあった。地元にこなければ手に入らないという代物らしく、酒好きにはたまらない酒らしい。酒好きで有名な先輩の数人と江戸っ子の先生が一升瓶を抱えていた。早くも出来上がり加減である。
それぞれが完全に「出来上がったころ」、わたしはふらりと宿をでて外の風にあたった。遠く、轟音が聞こえてくる。ちろちろ、という清音も聞こえる。真っ暗だった。漆黒の闇とはこのことだろうか?と思えるほど暗かった。
宿を背に漆黒の闇に足を踏み入れる。月はまだ山陰の向こうにあって、姿をあらわさない。
地響きがおきえるほどの轟きを頼りに足を進める。
山肌をゆっくり足を取られないように上がっていく。暗い。
ようやく目が慣れてきたところで目を凝らした。音が一番リアルに轟いていたところまでやってきたのだ。
「すごい。」
ものすごい高いところから急降下する大量の水が目の前にあらわれた。まっさかさまに落ちてゆく。水量も相当なものである。月が丁度光を発し、その瀑布を照らした頃だった。
ごーっと、暗闇の中で水晶のように光輝いている。よくよく見渡すと、いくつもの小さな滝がいくつも流れている。圧巻だ。
感動して見入っていると、背後から人の気配がした。
「おいおい、こんなところに女の子がひとりできちゃ危ないだろ?」
幹事の葛原だった。
「すみません。」
幹事は大変なのだ。それぞれの行動をチェックしなければならないのだから。
「もう少ししたら戻ります。」
「いやいや、いいよ。それにしてもすごいものみつけたね。」
葛原も見とれている。
「丁度いい時間帯だったんです。ただ、音につられて。」
「昔の人は音に敏感だったんだよね。でも、こんな闇ばっかりだったら音に敏感であたりまえかあ。」
葛原はふと感傷にふけり、「過去」に心を馳せているようだった。
「先輩はどうして、歌謡を研究しようと思ったんですか?」
歌謡も「音」の連続に意味を載せている。
「歌謡のリズムに不思議なちからを感じたから、からかなあ。」
まだ、「向こう」の世界にいる。
「不思議な力?」
「そう、不思議なちから、だよ。
言葉の表現は次第に変わってきても変わらない『リズム』がある。
その『リズム』はね、人の心を歓喜させたり、疲れなくさせたり、時には癒したりもするんだ。それに本当の、意味がのせられると、それはもう、僕らには全く理解不可能な奇跡をも呼び起こすんだ。昔の人はこんな闇を知っていたから、そうしたことがわかっていたのかもしれないね。」
わたしは万葉の世界に足を踏み入れているような気分になった。
相聞。相聞はもともと「互いに聞く」ということからきている。しかも、それが「恋愛」に繋がってしまうのだから、情緒がある。「闇」という効果なしで「互いの思いを聞く」ということ自体、当時はなかったようにも思われる。状況如何で万葉人の雅の意識は多様化したであろう。互いに「相逢う」のではなく、「相聞く」という効果は昼間では色気も何も無い。
やはり夜なのだ。万葉の恋愛の世界は「夜ひらく」のだ。
そんなことを思っていると、先輩がふと声をもらした。
「相聞・・・かあ。」
あれ?聞こえたのかなあ。ちょっとやばい、と思った。
「相聞、って知ってるだろ?あれもこうした闇の効果なんだろうな。」
「・・・わたしもいまそんなこと思ってました。」
「そう。」
大丈夫だ。先輩はまだ「向こう」の世界にいた。普段より素直になれる。これも闇の効果だろうか?
「ムジナ、って知ってる?」
「はあ、ムジナですか?ハーンの紀の国坂に出てくるあれ、ですか?」
「いやいや、この辺ではムジナは狸のことさ。でもただの狸じゃない。
化けて出る、狸のことさ。」
この闇の中で「妖怪」や「お化け」の話はよしてください。そう思った。
「化けて出る、って、あのお、、」
葛原は恐がっているわたしに大丈夫だよ、と笑いながら、僕がいるんだから、とわたしの手をにぎった。「闇」でよかった。どぎまぎしているわたしの手を強く握り、葛原は続ける。
「ムジナ、はね、化けて出るっていっても、声とか、音だけなんだ。
で、『ムジナ、このやろう!よくも化かしたな、』とかいうと、ささっと逃げてしまう。臆病なやつさ。」
そういって、笑った。わたしの手は汗ばみ、『ムジナ』の話どころではなかった。
どれくらいの時間そうしてたのだろう。
わたしたちは滝の凄まじい流れの中にさまざまな思いを洗い流しているようだった。吹き上げる風は足元を揺さぶる。その度に藤原の腕にしがみついた。
「じゃあ、みんなが捜しているとまずいから・・・。そろそろ帰ろうか?」
先輩は切り出した。
「ええ、そうですね。」
おしいような気もしたが、おっしゃるとおりである。
「・・・そうだなあ、一緒にいたことがばれるとまたみんなうるさいから、小枝子さんは先にいってて。僕はあとから、酔いをさまして帰るから。」
葛原は冷静にそう判断した。
同意したわたしはじゃあ、先に戻ります、と転げ落ちるようにその滝をあとにした。
「小枝子さあーん。」
葛原の忠告が命中したのか、数人の酔っ払いがわたしを捜しに来た。
「すみません。ちょっと、滝を見にいってて。」
しまった。いわなければよかった。秘密の場所にしておけばよかった。
「え?どこどこ?滝?きれいなの?」
酔っ払いたちは滝を観にいくといってきかない。
「で、でもね、危ないから。明日にしよう、ね。」
「えーっ!いきたいよねえ。」
酔っ払いは気が合うのだ。みんなで再びいくことになった。わたしは、といえば、先輩に遇いませんように。と祈りながら、足を進めた。
まわりは一層暗くなっていた。
「小枝子お、滝なんかどこにもないじゃない?」
あるよ。でもこんなに遠かったかな。
「おっかしいなあ。」
道を間違えたのだ。こう大勢だと「音」が巧くつかめない。「音」の方向性がよく聞き取れない。音は風で流れるのだ。
よかった、これで先輩も見つからないし・・・。
「じゃあ、さ、みんなで歌をうたいながら、帰ろうか?」
酔っ払いの先輩が切り出す。
「それがいい。そうしよう。そうしよう。」
我々の大声は方々の谷間に響いて、こだまと化した。全く、酔っ払いはいい加減である。その場さえ楽しければいい。滝のことなど、その場の「きっかけ」にしかすぎない。宿にもどると、先輩はすでに眠入っていた。
もうちょっと話したかったな、と思いながら、部屋に戻る。
部屋には佳代が寝ていた。
「小枝子、どこにいってたの?さっき、葛原先輩さがしてたよ。
小枝子だけ、姿がみえなくなったからさあ。」
「ごめん。ごめん。ちょっと散歩してたんだ。
・・・でも、先輩もう眠ってた・・・・・・ようだけど。」
残念だった。
そうだね、佳代はくすっとしながら、
「葛原先輩さあ、酔っ払いながら、小枝子のこと、捜してたんだけどすぐ寝ちゃってね。寝言までいってたんだ。・・・小枝子のこと気にいってるんじゃないの?」
「え?寝言って?」
「だからあ、捜してる気になってただけで、眠ってたんだよ。」
「うそでしょう?だって、先輩・・・・」
そこまでいって、口をつぐんだ。もしかして、と思ったのだ。
ほんとに?あれは「ムジナ」?本物の?
「なにいってるの?先輩はもうずーっと前から眠っててさあ。せんせ、怒っちゃってね。幹事のくせに。寝るとはなんだ。最後まで起きてろ。とかなんとか。」
じゃあ、やっぱり。
「実はね。散歩中に先輩に遇ったの。確かに『声』だけだったんだけどね・・・。」
流石に詳しいことはいえない。話さなかった。
「うそでしょう??先輩ずっとうだうだしてたよ。せんせに無理やり起こされたりしてさ。夢でもみたんじゃない?」
夢、ではない。確かに「手」の感触も残っている。
佳代はそういいながら眠りについてしまった。
不可解なまま、わたしもやがて朝を迎える。
狐につままれたような、とはこのことかもしれない。
わたしの場合、「狸」だったのだが。「狸=ムジナ」は先輩に化け、わたしを見事に化かしたのだ。すっかり、化かされた。
よりによって、なによ。と歯をみがいていると、葛原が「よお」、と声をかけてきた。
「昨日はどこにいってたの?」
やっぱり、覚えていない。葛原に確認するまでは、との微かな希望もこれで完全にだめなのか、と思ったが、「滝」のことだけは話してみようと思った。歯を磨き終え、
「滝を観にいってたんです。」
ムキになっていた。葛原はなにも悪くは無い。葛原は不安げに、
「小枝子さん、僕何かした?」
「何もしませんけど、しました。」
「え?酔っ払って何かした、のかい?」
覚えがないようである。
「先輩には関係ありません。」
段々支離滅裂になってきた。葛原はそういえば、という顔をして、
「僕もね、昨日、滝の夢をみたなあ。」と言い出した。
「え?滝?」
「そう、すごい瀑布でね。小さい滝がそのまわりにいくつもあって。」
それで?
「あのお、わたし、そこにいませんでしたか?」
つい、口を切ってでた言葉は藤原を赤くした。
「どうして、そんなことをいうんだい?僕酔っ払って君になにかいった?」
「言わないですけど。別に。ただ、わたし昨日、滝を観にいってたら、先輩が現れて。でも、先輩は実はムジナで・・・・・・。」
なんだか、わけがわからなくなってきた。
「僕、の夢に確かに君が出てきて・・・・・・はいたんだ。
でも、どうして僕がムジナで、・・・。
おかしいなあ。僕は昨日酒を飲みすぎてすぐに眠ってしまったらしいんだよ。さっきも先生に嫌味言われたよ。君と滝を観にはいっていない。でも、滝を観にいっている夢はみた。・・・。」
混乱しているようである。夢だろうが、なんだろうが、あれは実際にあったことなのだ。結局のところ、
「ムジナに化かされていた。だけの話です。」
わたしたち。なにかほっとした。
「ムジナ、ねえ。このあたりのムジナは音だけ真似するらしいけど。僕に化けたムジナは僕と同じ声をしてたの?」
どうやら、葛原は飲み込みが早い。ダテに民俗研究をしているわけじゃないらしい。
「声、してましたね。姿もある、ようにリアルでした。で、わたし、そのムジナに口説かれたんですよね。」
いってしまえ、と思った。いざというときは「ムジナ」にかこつければいい。
へ?という顔をしながらまた見る見る赤らんでいく。葛原も心当たりがあったらしい。
「あれ?夢じゃなかったのか。」と声を漏らした。
本当は“口説かれて”はいなかった。ただ、手を握られただけ。でも、こういう場合いってしまった、が勝ち、という気がした。
昨夜から寝付かれないのは、きっと、そういう気持ちになってしまったからで、“ムジナ”のせいではないのだ。
「ごめん。ちゃんといおうと思ったんだ。」
葛原はそういって、ばしゃばしゃ、顔を洗った。洗い終えて、わたしに、
「今夜、滝のところで待ってるから。」といった。
わたしは本当?という素振りをしながら、
「今度はちゃんときてくださいね。
また、ムジナじゃあ、嫌ですよ。」
「大丈夫。大丈夫。・・・よかった、笑顔がみれて。」
葛原の台詞に、そういえば、とずっと不機嫌だった自分を思い出した。
そうかあ、ムジナはわたしに「笑顔」の意味を教えてくれたんだ。
ふと、そう思えた。
「ムジナ」で始まった採訪による研究は、このあと「ムジナ」のうわさばかりだった。
どこのおじいさん、おばあさんのところへいっても「ムジナ」の話がでる。
そう、特別な話題でもないらしい。
「このまえよお、山ん中で木さ、切ってたらさ。突然、ブーブー、って音が聞こえるのよ。そいで、こんなとこさ、車入れるわきゃないわな。ぴーんときてな。『こら、ムジナさ、俺を化かそうったって、無駄だぞ!』といったらばな、ひょひょっと、ムジナさ、出てきてな。こっちむいて、尻尾ひっくり返していっちまったさ。え?ムジナに化かされたい?そりゃあ、簡単だよ。夜中にその辺に立ってたらいいべかんさ。暗いとこなら、ムジナどこでもでてくるさ。」
そうだ。わたしも暗いとこだった。真っ暗で「存在」なんて明らかではない。
田麦俣の夜は漆黒の闇の女神が空から降ってくる。
「高い山からきんにょもにょ。
ふりさけ見ればきんにょもにょ。
よくよくみたらば、こりゃ、瓜やなすびの花盛り。」
★ ★ ★
一晩たった。
わたしは約束どおり「滝」のところまできた。ひとりだとよく音が聞こえる。風にはだまされない。
「やあ、すまない。待った?こんなところで待たすなんて、よくなかった・・・ね。」
「いえ。慣れましたから。」
自分の声が妙に落ち着いている。今朝のように上がったりもしない。
どーん、どーん、という音が足下から響いてくる。
「それにしてもすごいね。でも、やっぱりここだったんだな。夢と同じだ。」
「今度はムジナじゃないですね。」
「どうかなあ。ムジナだったりして。」
「もう茶化さないでください!」
「ごめん。ごめん。・・・でも、僕ら、こうした機会でもなければこうはならなかったよね。」
わたしもそう思っていた。東京ではこうはならなかった、と。
「もしかしたら、こうした気持ちの通じ方が本質なのかもしれないなあ。」と葛原は続けた。
「わたしも先輩がそういう人でよかった、と思います。」
闇は二人に照れ隠しのことばなど用意してはくれなかった。きっと、明るいところでは話せないようなことがすらすらと出てくる。
「東京に戻っても気持ちが変わらないだろうか?」
葛原はふとそういった。
「えっ?どうしてですか。」
「なにかね、ここの魔力みたいなものを僕は感じるんだ。」
「そういえば、そうですね。・・・でも、それはそれでいいじゃないですか。思い出に残ることに変わりは無いし・・・。」
ちょっと寂しい気もした。
「あ・・・、小枝子さんの方だよ。僕じゃなくって。」
「え?」
「僕は以前から君が気になっていたから。」
藤原の言葉に意外な事実を知った。本当に?
「僕が君のことを気になっているって、知らなかったのかい?」
「全然、思いもしませんでした。
それより、わたし、まわりがみんな恋愛に浮かれているのをみていて、そうなりたくない、と思っていたから・・・。」
そう、わたしは他の人たちのように簡単には人を好きになったり、恋愛に振り回されたりするのはみっともないことだと思っていた。
「僕もまわりも知っていたよ。こと、恋愛がらみとなると君の表情はいつも硬くなっていた、からね。」
「気付いてたんですか。」
でも、と葛原は続けた。
「今回のことが君の心を潤わせてくれたんだとしたら、僕はムジナに感謝、だなあ。
おもいっきり感謝だなあ・・・。」
普段は落ち着いている葛原が子供のように嬉しそうに傍らにいる。
奇妙だった。わたしはそのすべてを受け入れてもいいと思っていたからだ。
「手、つないでもいいかな・・・」
わたしは、はい、と小さく応えた。胸がわくわくしている。
「昨日は断りもしないでつないだんですよ。わたし心臓が止まりそうだったんだから。」
心が温かく、暖かく、小刻みに震えている。
「え?ムジナに手をにぎらせたのかい。」
そういえば、あれはムジナだったのである。でも、けむくじゃら、ではなかったような・・・。
「ムジナの手をさわったのは、小枝子さんくらいかもね。・・・
これは僕の手だけど、こんな手、だった。」
こんな手だった。
「あれはやっぱり、先輩の手、でした!」
「おかしいなあ。・・・ね、小枝子さん、月がほらあんなとこまで昇ったよ。もう、夜中だね。」
本当、と月に見とれているわたしに藤原はやさしくキスをした。
「驚かないで・・・。あんまり君がきれいにみえたから。ごめん。」
「誤らないでください。わたしも先輩にこうしてもらいたかった・・・から。」
と、背後に人の気配がした。
わたしたちは顔を見合わせて、「あれっ?みつかっちゃったかな。」という素振りをした。
「おーい、そこにだれかいるのかあ・・・。」
他の先輩たちの声だった。
「しーっ。ムジナのふりをしよう・・・。」
おしまい。