【水無月】 〇満月 :6月 6日10時39分 (旧閏4/15)

『水無月の憂鬱』

・・・今回は茨城県筑波学園都市からのエッセーです。


 茨城は多くの伝説が吹き溜まる。謎の多い土地といった印象がある。

晴れていても雨が降っていても、そう面持ちを変える訳でもなく、そこにある。

かつて、この地は「常陸の国」と呼ばれた。意味は「日の立つところ」、即ち「東」を意味する。「東」は古代の漂流する人々にとって、黄泉の国であり、「謎の国」であったはずである。そして、その向こうになにかを「期待」していたはずである。この島国で一番早く太陽が昇るところ、として。

九州から、或いは大和からそして諏訪から人々はこの地に流れてきた。ある者は新天地を求めて、ある者は覇権から逃れて。望んで来たか、そうでなかったか、そうした問題はあるものの、皆一様にある種の「文化」を伴ってきた。

その文化の中心にあるのは「陰陽の融和」のように思える。とすれば全く違った二つのものが「融和」することによって、この地は意味をもつ、といった感じがある。

 最近、仕事の関係で筑波に出掛けることが屡ある。「つくば博」の開催、「筑波大」の誘致以来、「学園都市」の名のままに科学技術関連の研究所が多くつくられた。

様々な「波」がここに流れ着いた、のは確かである。

しかしながら、土地との融和は図られていない。どこか馴染んでいないのだ。

本来、この地の意味するところの「融和」が可能になれば、この地はまさしく発展するように思われる。かつてこの地に移り住んだ人々が持ち寄り、根付いた「文化」のあり様とそれを活かす「科学技術」。そう簡単にはいかないかもしれないが、次世代の「技術」はこうしたところから生れるように思う。

筑波には筑波山という山がある。この山に祀られているのはいざなぎ、いざなみの夫婦神である。そこで上げられる祝詞はどことなく古い日本語の響きをもち、神主と巫女の掛け合いのような太鼓で誘われる。辺りの景色とは違って、なにか活気がある。

まさしく「陰陽の融和」の型、なのであろう。大和以西では一緒にあまり祀られなくなった「夫婦神」が一緒に祀られているのも興味深い。後世の人々に「知見」を示しているかのようだ。

 昨日は晴れていた。かの地は確かに晴れていた。しかし、土地から出るエネルギーはどことなくどんよりしていた。すっきりしないものがある。

ブナや楢が多い茂る山道を走り、峠にでると月が姿を見せた。朧月。満月には少し足りないが殆ど完全な月に見える。木々のざわめきが妖しく、月を一層美しく際立たせる。

湿度が高いためか、水に映し出されているような感さえ与える。

「本来は満月よりも新月の方が人のエネルギーは高くなる、と思わない?」

一緒にいた人がそう言う。

「確かにそうですね。満月はそれを補うために月からエネルギーを貰う。でも、それは人の中から出てくるものではないのに人は自分のエネルギーが月と対応している、と思う。本来、一種の誤解を通じて発散させるのでしょうね。」

満月に近い晩に「新月」の話をしている。

「いえね、ミュージシャンに新月にライブをやろう、というとみんな嫌がるですよ。

エネルギーが下がる、とかなんとかいって。」

「それは違いますよね。本当の自分を出すのが恐いから、じゃあないんですか?

月のせい、にもできないですし・・・」

新月は振り子のゼロに似ている。動こうとしない。でも、そこから確かに満たされていく、ということを「振り子」は知っている。決して、そのままではないということを。

「満月は本能に働きかけ、個の認識を超えたところで蠢き、新月は理性の中で支配される個のエネルギーを静かに促す、のかもしれない・・・」

どちらにしても、6月は雨。本能的にも理性的にも「鬱なる季節」。

「しかし・・・明けない梅雨はないわけで、夏は必ずやってくる。その夏のために振り子は梅雨を過ごすのでしょうね。そういう意味では冬に似ているかも?」

月の出番も少なく、見えない月に心の中で語りかける。

「ワタシガワタシラシクイラレマスヨウニ・・・」との思いで。

理性と上手く融合できる「本能」のあり様を考えつつ、筑波山に手を併せながら。

(by R)