【水無月】 〇満月 :6月 6日10時39分 (旧閏4/15)

『白い虎と七色の月』

・・・今回は午前3時の西麻布からのエッセーです。


 気のおける友人達と西麻布の「光仙」で食事をしている。
ある人が夢の話をした。

「昨日、妙な夢をみてさあ。
 巨大な虎の口から金貨が沢山でてくる夢・・・」

そこにいた一同は 「すごい夢だなあ!」
と感心する。そして、小説家の女性が口を切った。

「それって、ほんと大金持ちになる象徴だね。
 虎も金を指すでしょ。ふふふ・・・」

皆ふと我に返って、周りを見渡す。

「そういえば、・・・」

「そういえば、ここって・・・」

「虎だらけ、だ・・・」

★ ★ ★

 西麻布は最近活気を取り戻してきている。

夜中のタクシーも「並んで」いない。流れている。
今日は日中39℃まで気温が上がった。湿気がまだ充満している。

午後10時過ぎ、見上げるのに丁度いい位置に月が昇っていた。

「・・・ああ、七色の環がきれい・・・」

「湿度が高いと、あれ、出るんだよね。」

「明日、雨だったりして、ね」

「・・・そういうねえ・・・」

2軒目のバーを求めて、我々は交差点から青山墓地方面に歩き出していた。

RRR・・・

「あ,電話・・・だれ?」

「おまえだろ」

「あ、そうだ。・・・もしもし?」

「・・・ドウモ、今夜カラ3晩続ケテ満月ダッテ知ッテタ?・・・」

「へ?それ何?誰?」

「なになに、何の電話?」

「なんかね、今日から三夜満月が続くんだという電話だった・・・」

一同、はあ、とした顔をしている。でも次の瞬間、

「まあ、いいんじゃないの・・・月きれいだし。
  今日もなんかいいじゃない・・・」

妙な電話だった。よくわからなかった。
でも皆「いいんじゃない」といった。

酔っていたからかもしれない。適当な夜だった。
適当でいい感じだった。

先頭に歩いていた者が螺旋階段を上がっていく。

「ああ、やっぱり。」

「そう、やっぱり、あそこだったね。」

 皆超能力者になっていた。
先頭の人間しかしらない筈の店だった。でも、皆「『そこ』にいくことを知っていた自分」を当たり前にごく普通に受け止めていた。

「今日あること」みな当たり前で「以前から知っていた」ことのように受け入れていた。

そこに月がある。それだけで皆一様に受け止められるのだ。

その「当たり前」がとても心地よかった。

「気の会う」ということはこういうことなのだ、と思う。

自然に、自然に「ある」ということ。互いが主張しすぎることのないコミュニケーションの流れ。時に響きあい、感動し、また普通に流れる。

ことばとは、時の流れ、人の流れの中にたゆたう「葉」のようなものだと。

昔の人はよくいったものである。

焦ることなく、慌てることなく・・・。

意識はどのように状況に反応しても、
「状況」はあるがままなのである。

如何にすればこころが添うように流れられるのか?

時に石に躓き渦を生じ、時に葉を巻き込んで、時にさまざまなアクシデントがあろうとも、大きな意識の中で流れがとどまるという事はない。それが「生きている」ということ。

様々な生命の糧の中に自分を投じるという勇気をもつということ。

「自我」さえ強くもたなければ、多くの生命の流れはとても優しいものだとわかる。

神、という流れには無限の命が浮き沈みする。月はその活力にある。月は「勇気」をもつことを後ろ押しする。始めに生命としてこの世に生れたそのときから。

★ ★ ★

 思えば、虎の意味する「金」は力の象徴なのかもしれない。

金の意味する「西」は黄泉の国。黄泉の国は「死後」の世界。
そこから「水」は生じる。

我々が生きている「流れ」の象徴は「水」に他ならず、「月」の象徴は「水の力」に他ならない。水に「力」を与えるもの。

だとしたら、虎の口から出てきたものは「生命力」に変化するもの、と受け取られる。

本来、「金」の意味はそうしたものだったのだ。

それを「物質」に置き換えるものとしたときから我々の意識は変化した。

「金」は我々に刃を向けるものとなった。

どうすれば、元に戻すことが出来るのだろう?

それも恐らく「流れのまま」にまかせるしかないのだろうけれど。

三夜続くという「満月」はそのことを気付かせるための「仕組み」のような気がした。

虎の口から出た多数の金貨はそこに浮かぶ金色に輝く月の象徴だといいのに。

「七色の月」は憂いを含んだ月。我々を思う母なるものの「憐れみ」のように・・・

(by R)