12年に一度の出会い...
平成13年辛巳年の8月16日木曜日、12年に一度という「筒島弁才天」のご開帳の祭に参加させていただいた。縁あって友人からこのイベントの知らせが届いたのは先月の半ばだった。何が何でもいかねばならない衝動が胸をよぎる。まずは「過疎化」という文字と
「島自体がご神域」
というフレーズに心揺り動かされた。
このままでは「島」の文化が失われてしまう、ことに深い焦燥感を覚えた。知らなければ知らないで過ごせたのに、「知ってしまう」と動かずに居られなくなる。
★ ★ ★
佐久島は三河湾一の大きな島である。そのかたちは三河そのものの型を成しているところから三河の豪族達は古くから島自体を信仰の対象としてきたようである。
過疎化の著しい、360余人という島の人口、若い者は皆都会へ・・・田舎ではよくある現象である。しかしながら、こうした場所の「文化」こそこれからの日本を護る答えが隠されている、と思われて仕方ない。どこにでも行けるわけではない。だからこそ、「縁」のあるところ、「縁」が作られたところには多少の無理を押してでも出掛ける。
佐久、という言葉の意味を友人は「開拓」ということで解してくれた。
即ち、「裂く」、ということの意と繋がる。「裂く」ということは本来の島の力を未来に生かすために「出ていただく」・・・神の力、自然の力を人の手によって「生かす」ための第一歩なのだ。人にとっては本来「利用」しやすくするための方法なのだけれど、それでは人が主体となってしまう。だから敢えて、「共生」するための方法という意味をとりたい。先人達はそう捉えた筈である。まず、神の力がそこにあって、そのちからに逆らわずに「生かす」ことを第一に考えた。
「筒島」はその佐久島から橋によって繋げられた小さな島のうちのひとつである。
その名前の由来は今回知ることができなかったのが残念であるがまた訪れればいいだろう。
「つつ(筒)」は昔から星を意味する言葉として伝わっていたのでこの弁才天は天と海を結ぶ弁才天なのかと思い、その由来がどこかにないか探したのだが駄目だった。
「いいつたえ」は武将の武勇伝に変えられる。ここに遺された「伝説」も武勇伝、即ち有名人の威光によって時代を遡ることができなかった。
神島と共に、伊勢湾、三河湾に祀られた「神」の原型は「海の民」たちの神であり、女神に象徴される。女神は時折わたしたちを包み込み、多くの恵みを与え、また時には怒りに触れさせ多くの命を奪う。海の民たちは天の動きを見ながら、航海する。または潜る。方角を、陸の在り処を認識する。
だからこそ、「星の島」に祀られた「弁財天(水の神)」がここにいてもおかしくないのではないか、と思った。
ただ、熱田神宮から伊勢への海の道は確認できたように思われる。
「八剣神社」の存在である。これは「八剣宮」との関連と見られるのではないだろうか?
その証拠か、八剣神社がこの三河湾の海縁に点在している。
藤原俊成の時代に勧請されたというから平安の時にあるだろう。
彼の島は凛と美しく、海にあった。緑に覆われたきれいな島である。
我々は佐久島の帰り、竹島に立ち寄った。
またしても「竹島」という島の「名前」に惹かれたのだ。「竹」は「多気」にも通じる。恐らく、本来「気」が充満しているかたちのよい島という意味であろう。何気なく、立ち寄ったその島は「筒島」と同じ弁才天が祀られていた。
藤原俊成が三河守として在任中「竹生島」から勧請されたという。
どうしてここまで似たかたちの島がこの八島には存在するのだろう。
俊成にとっては懐かしい琵琶湖の風景に似たこの島を眺めることは郷愁を満足させることになったに違いない。未開の土地でのその島は彼の励みにもなったであろう。
★ ★ ★
「島」のかたちそのものが「神」を顕わし、感じさせるなにか、がかつての人々の感性には確かにあった。その感性は自然のちょっとした変化にも感じ入り、異変を察知し、災害さえ免れる。そうした「神」から与えられた「ちから」に他ならない。
よく感じ、よく嗅ぎ、味わい、聞き、見る、ことによって識る。
「弁財天」の狭義は「水の神」に集約される。しかしながら、「水」は万物の源である。
また、その流れる過程はすべての現象に対比され、応用されるべきものである。
それは必ずしも「水」だけではない、風の流れ、人の流れ、時間の経緯、かたちの経緯、・・・
空間と時間の経緯に関するすべてのことに要因することに「弁財天」は効力を発揮する。したがって、それらを認識し分析し、生かして行くことにはさらに「知恵」が要求される。
そうした「知恵」の神にまで発展していくところに「六臂」、「八臂」といった弁才天のお像のかたちが形作られたのであろう。器用な神様としてのかたちである。
(by R)