幼少の頃の、アイヌの森の記憶から...
秋深くなると思い出す光景がある。
それはカソリックの女学校の裏側に拡がった森のこと。
落葉が重なった柔らかな径から「沼」を越えると、不思議な場所があった。
単なる好奇心だった。
森の奥にはきっとなにかがいる。なにかがある。
「確信」にも近かった。子供ながらの「勘」だったのかもしれない。
幼稚園に入りたての時分。
小さな子供だったわたしは自らの社会が広がったのを感じていた。
毎日が楽しくって仕方ない。
それは移動距離が長くなったことに関係している。
大抵の親は幼い子供達に
「あまり遠くへ行ってはいけませんよ」という。
そう遠くへいっているつもりはなかった。
気付くとわたしは親の「目の届く範囲」にいない子供だった。
何度も叱られた。叱られても「なにがある?」ことへの好奇心が勝っていた。
「この子は馬鹿じゃないかしら」と思われたことだろう。
親の言うことをすぐ忘れてしまうのだから・・・。
幼稚園というひとつの管理された場所へ上がることにより、
でも、今度は違う。幼稚園に行くという名目がある。
近所には同じ年の子達がいて、みんな一緒に登下園していた。
北海道の秋は午後二時を上回ると光が優しく翳る。
当然、家に着くのは日が落ちる直前になる。
暗くなってくると恐いものだから「七つの子」を大きな声で謡いながら、暗くなりかけの道を走って帰った。
「からす、何故なくの?からすは山にかわいい七つの子があるからよ・・・」
―からすが鳴くからはよ帰ろ・・・
制服を着たまま、遊び歩くものだから制服がすぐ汚れた。
そのうちに着替えてからでなければ遊びにいってはいけないといわれる。
仕方ないから、家に戻ってから着替えて遊びに出かける。
―そんなに急いでどこいくの?
―内緒だよ・・・
時間がどれだけあっても足りなかった。
家までの距離には魅力的な「場所」が幾つもある。
大人の足で20分くらいの何気ない道のりも「宝の宝庫」だった。
ひとつは「水溜りの向こう」であり、ひとつは「だんご山の向こう」であり、他に「高さの変わる坂」、「クスノキ」、「待ち合わせの木」などがあった。
いつものように「水溜りの向こう」に行こうとザザッと小さな獣のように谷を降りていく。途中までは小道がある。小道には大きな沼のような水溜りがあった。
その水溜りは秋の柔らかな光を受けてきらきらしている。
―魔法が使えたらどんなにいいだろう。
このきらきらを抱えて家にもって帰れたらなあ・・・
(by R)