諏訪詣でにて、吉方取りを考える...
●11月10日から11日にかけて、四緑木星の私は、代々木のNさんに誘われて信州諏訪へ吉方取りに行った。何でも、今年平成13年は四緑木星の運気が全体的に良くない年で、なおかつ、吉方取りに相応しいラッキーデーが9月と今回のたった2回しかないらしいのだ。年に2回のラッキーデーといわれたら、もう行かない手はないではないか。
●Nさんは、それを商売にしていないという意味で「プロ」ではないものの、気学・易学何でもござれで、結果の見方も非常に厳格で厳しい人なので信頼できるのだ。かくして、この「何かよさそうなハナシ」にノリで乗った私のほかに、同じく四緑木星木星の元世界的ライダーKさんと、旧華族系キャピタリストのAさん、そしてRの5人で出かけてきた。
●吉方取りというと、すぐに思い浮かぶのは平安時代の貴族達が毎日毎日暦を見ながら、「方角が悪い」とかいいながらその日の行動を決めていた、という話しである。学校で古典習った頃は教師の影響もあってか(そういえば、元革マル派か何かの上層部だったらしい)、そんな貴族達を「迷信に縛られたかわいそうな人たち」(というか、「迷信にそこまでエネルギーを費やせるぐらい恵まれた人たち」)とか、「そんなことにウツツを抜かしていたせいで貴族の世は、武士たちに取って変わられたのでした、おしまい。」的なマイナスのイメージが強かったが、いざ、自分が誘われてみると、なんだか得した気分になるものである。でも吉方取りって何をするんだろうか?
●Nさんと一緒に吉方取りに回ると、吉方取りの本質的な意味が見えてくる。やはり、持つべきものは優れた導師なのだ。結論から言えば、私見では吉方取りの本質とは
『その方角(吉方)にある土地の良いエネルギーを
十分身体に浸透させる』
というシンプルな原理につきる。この原理を元に考えると、吉方取りで我々が行った以下の様々な行為がごく自然に理解されるのである。
1)吉方にある聖地(神社など)をお参りする
・ 今回の四緑木星の吉方は「西」であったから、東京からなるべく遠い「西」ということで諏訪大社を選んだ。聖地とはとりも直さず、その土地で最も土地のエネルギーが良い場所のことである。多分、自分自身で「良い場所」を見つけられれば、赴く先は神社でなくても構わないのだと思う。しかし、日本人は昔から気の良い、神聖な場所に「神社」を建ててきた。(「神社だから気がいい」というより「気がいい場所だから神社にした」という方が正しい場合が多いのはその例だと思う。)だから古くからある神社を選ぶ、というのは理に叶った選択なのである。
2)その土地のものを食べる
・ 今回は、諏訪大社の下社・上社にそれぞれ湧いている温泉を飲んだ。あと、そばも食った(うまかった)。その土地でとれた水や食べ物は、当然その土地のエネルギーを吸っているのだから、食べることを通じて気を取りいれることができるのである。
3)温泉につかる
・ これも同じ原理で、温泉はその土地の地中深くを通ってかつ地熱に熱せられた水であるからまさに「火水(かみ)」ともいえる。そんな温泉につかるのは吉方取りにとって最もよい行為だそうだ。
●吉方取りとはシンプルで自然な行為なのだ。まだ自分なりに研究が必要であるが、吉方取りは多分、「迷信」ではなく理に叶った「生活テクノロジー」に属するものだったのである。そう見方を変えてみると、「ブルジョア的頽廃的行為」であったはずの吉方取りが何だか理に叶ったありがたい行為に思えてくるから不思議だ。(というかお前が軽薄すぎるのか?)。
●そんなこんなで、吉方の土地のエネルギーを存分に吸ってきた私に何か有り難いことは起こるのだろうか? それが一番の問題ではある。これから日々の生活でその結果が出てくるだろう。しかし身体的には何となく体か軽くなって、すっきりした気分にはなった。まあ、自然の中に身を浸してその上温泉につかったのだから、吉方取りでなくても身が軽くなるのは当たり前のような気がするが...それだけでも意味があったってもんだ。
●現に、今でも経営者の方などで、これという日に吉方取りをする人は多いらしい。あなたも楽しく健全な吉方取り、試してみませんか。
(by H)