【2002年 文月】 満月

『満月は欝への発火装置』

それは「時間のない日」の1日前のこと。。。


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 それは「時間のない日」の1日前のこと・・・。
時間のない日というのは「マヤ暦」に綴られた話である。つまり、一年を13ヶ月で割って、残った日を大晦日の次の日に位置づけてあるのである。
「前の年のことを考える日」なのか、「新年のことを考える日」なのか、
その定義はよく知らない。人それぞれなのだろう。
そもそもわたしは専門家ではないのでそれぐらいのことしか分からない。
ただ、その日はそういう日で、しかも満月だった。 

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 札幌のあるホテルでわたしは今まで味わったことのない「不安感」を感じた。
「わたしが感じている」のに「わたしの不安感ではない」。誰の不安感かもわからない。
「不安」は何気なく襲ってきた。立っていることも叶わず、寝ていることも叶わない。
ついには呼吸困難にまで陥るという始末。
家族が一緒だったため、理性が働く。
「心配させてはいけない」という理性。
しかし、「不安」は口から言葉を吐かせる。
「呼吸の仕方が分からなくなるほど、不安を生じている」と。
きっかけはなんだかわからない。ただ、テレビのニュースはその状況を増長させた。

 殺人、戦争、誘拐、強盗、殺人、戦争、強盗、誘拐・・・サツジン、センソウ、ゴウトウ、ユウカイ・・・。
「次女と3女が冷蔵庫を開けたら、腐敗臭がして4女のバラバラ死体が出てきたということです。」・・・TVのレポーターは日々起こる事件を淡々と感情なしに伝える。
毎日毎日、不穏な事件が起きている。どの事件がどの事件なのか脳は既に整理しきれなくなっている。映像と音声がバラバラに認識される。
時間的な感覚も、空間的な感覚も既に失われる。似たような事件が世界中に溢れている。
親が子を殺し、子が親を殺し、家族で家族を殺し、近隣の人が近隣の人を殺す。
そして、自分で自分を殺す。若者も老人もない。
まさに「終末現象」。
家族は言う。
「あなたの不安ではないでしょう?あなたひとりが悩んでもどうしようもないこと・・・」
分かっている。分かっているのにつきまとう「恐怖」?

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 「あの感覚」は死神が依りついてきたような「感覚」に似ている。
これまで数回死神に依りつかれたことがあった。
「死にたくなる」のである。
以前はそれとなく、その度ごとに「適当な人」が現れ、救われた。
こちらから出向いたわけではなく、偶然「山伏」のような人が現れて救ってくれたのだ。
どこからともなくやってきて、頼んだわけでもないのに加持祈祷をやってくれる。
そうすると、なんだか身体の中から冷たいものが出て行くような感じがあって、楽になる。
「憑き物」が出た感じだ。子供の時分から依りつきやすい性質だといわれる。
どうして?
―・・・救ッテクレソウナ気ガスル、カラ・・・。

今回は誰も助けてはくれない。わかっている。誰も来ないことを。現れないことを。
自分自身で解決しなければならない。
「無意識」に知っている。だから、「不安」なのか?
自分が望む「死」ではないことは認識している。
自分自身の「不安」ではない。家族がいうように「世間のこと」を憂えても仕方ないのだ。
所詮、わたしには何も出来ない。
ひと月が経ち、状況はそう変わってはいない。しかしながら、わかったことはある。
救われる方法は、自分自身の心の力を高めること、しかないのだと。
「心力」とでも云おうか。
心が弱音を吐く。心が「憑き物」に奪われる。
心が安定しない。心が「世間」に流される。
どれも「心の問題」である。
「しっかりしなさい!なにもかも受容れるという度胸を身につけなさい。」
自分に発破をかける。そう、発破をかける。
でも、まだ弱弱しい。こんなに弱弱しい。

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 変わったこともひとつある。
「浄化願望」が高まった。身体がなにかを排除している、ということ。
身体を健全なものにしていく。健全な身体でなければならない。
それが心を進化させる。脳を活性化させる。
身体の内から脱皮していくような感覚。
「鬱」になりかけのときは一人で家にいるのが辛かった。誰かと話をしていたかった。
みんなそうなんだろうか?
仕事もはかどらない。やらなければならないことは山ほどあってみなそれぞれに楽しい筈なのに、落ち着かない。
火を使うのも辛い。あれほど好きだった料理も手につかなくなった。
自然食の店に屡足を運び、「西荻」の地便を好ましく思う。
買う野菜も根野菜から生野菜系へと変化する。
水分が足りないのだ。
水を飲もうとすると、溺れる。清涼飲料水も溺れる。
水分を野菜で補給する。
この感覚は生まれて初めてだった。
何しろ、身体が冷えやすいから、生野菜は控えてきた方である。
でも、身体は欲する。生野菜と果物。
しかも、無農薬。無化学肥料、でなければ安心できない。
ああ、・・・もう病気だ!
病気になると医者へいけと言われる。
医者がいる「場所」に長くいることが「不安」に繋がる。
待合室も嫌だ。映画館と同じ嫌悪感。
みな一様に前方を見ている、という恐怖。
一斉に振り返ったら、という恐怖?なのだろうか。
不自然な整然さが違和感を招く。
結局、普段どおりに人と話し、仕事をし、「自然食」の店へ足を運ぶ。
食べたくないなら、食べなくってもいい、という開き直りに変わった。

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 そんなある日、知合いから「無農薬」の桃を取りに来ませんか?と誘われる。
すぐに反応する。無農薬の桃!
他の知合いを誘って、クルマで向かう。
車中、無意識に
「桃って、いざなぎの桃かなあ・・・だったらいいなあ」と話し始めた。
「いざなぎの桃」とは黄泉の国から帰還する際に鬼人たちを追祓った神聖な果物である。
朝7時、桃は瑞々しい太陽に照らされタワワに熟れている。
朝食代わりに桃を頬張る。ジューシーな露が滴り落ちる。
ガラスウールのような毛が空中に舞い、体中がちくちくする。
ほんの僅かの時間のような気がしたが、心が洗われるような面持ちになった。
熟しすぎた桃を宙に放りながら、「いざなぎ」のようだな、と思う。
ここには鬼はいないだろうけれど・・・。
帰りの車中、別な友人から携帯に連絡が入る。
「井戸さん、今どこ?」
「御坂へ桃を取りにいった帰り・・・。」
「ふーん。黄泉の国からの帰りだね。」
そうか、御坂は「富士信仰」との縁において、樹海を超えた人界と考えられたのだろう。
黄泉平坂。そうか、黄泉の国へ行っていたのか。
桃で祓ったからもう大丈夫なのかもしれない。
ふと、そう思ったらやけに気が楽になった。

 

(by R)