村上春樹と妙高山
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7月の満月からひと月が経つ。
憂鬱な満月がまたそろそろ訪れる。
今回は大丈夫そうだ。
「免疫」が付いた。
このとき、この「免疫」は石の力と「大麻」の力によるものであるということにはまだ気付いていなかった・・・。
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ある雑誌の編集者と食事をする機会があった。
知合ったばかりであるのにやたらと「喋り」が進む。
途中、彼女が「妙高山」の麓の出身であることがわかり喋りが更に加速する。
なにかに「憑かれている」ように。
この数日、もしかしてわたしは「ダキニ天」に憑かれているのではないだろうか?と
思い苦しんでいた。
誰かに呪いをカケラレタノダロウカ?
そんなことはない。ただ、その仕組みに気付いてしまった興奮からなのだ、恐らくは・・・。
ふと女性編集者が思い出したように告げる。帰り際のことだった。
「もしかしたら、辛いかもしれないけど読んだ方がいいかもしれないですね、村上春樹の新刊。『海辺のカフカ』っていう本なんですけど。9月12日に出ます・・・」
どちらも気になることがあった。
「妙高山」と「村上春樹」。
一見唐突なこのふたつのサインは、わたしの感覚の中で繋がる。
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妙高山は白山信仰だという。
なのにその時の私の頭には「クリカラ王」が浮かんだ。クリカラとは不動明王の化身で剣に竜が巻き付いたビジュアルで描かれる。
なぜだろう?
白山は九頭竜との関わりが深い。「クリカラ王」も竜で表現される。
編集者の女性は妙高山には「剣」が祀られているといった。そんな気がする、と。
「戸」が開いている気がする、とも...
「クリカラ王」と妙高山をインスピレーションでつないだのは「鉱物(剣)と雷あるいは大気の動き(竜)」だ。では「戸が開く」とはなんだろう?
「戸隠神社」?だろうか。
妙高は「戸隠」からのライン上にある。
白山の伝承も天に窓が開いたり、トイレに入り口が出来たりと「戸」との関連が多い。
わたしにもそういった経験があった。「夢」・・・ではあるが。
だとすれば、本来隠されているはずの戸が「開かれている」ということか。
妙高に祀られているという「関山神社」との縁も面白い。
「関」は「戸」のことであるというから、「戸」がしっかり管理されていないのだろう。
「戸」が祀られなくなって久しい、のであろう。「戸」が祀られていない、というのは「ない」ということではない。その重要性を無視されてきているのだろう。
「戸」を軽視してはいけない、というメッセージ。
戸を開くことは新しい空気を取り込むことであると同時に、「害」をも取り込むことになる。
戸が開けっ放しになっている、から、「苦しい」のだ。
余計な「気」が流入している。まるでわたしの体のように。
体内は必要のないものを浄化しようとするが、「穢れた電磁波」のような「気」は浄化しきれない。
電磁波まみれになって、「気」が狂う。
ここ数ヶ月の私は、まさにそんな状態だったのだ。
そしてなんらかの「鉱物」、石の力が何かの鍵になるのだろう。
彼女が言っていた、妙高の石で作られているという祠が気になる。
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そして、村上春樹の小説。いつも「シンクロニシティ」が起こる。
今度のシンクロは?一体何?
この数ヶ月の「不安感」と「石」の扉と関係があるのだろうか?
小説の主人公は「石」をお腹の上にのせて静かに瞑想する。
そして(小説上では明言されていないけど)UFOらしきものが出てくる。
9月―。
村上春樹の新刊を読み終えたあと、わたしは妙高へ向かう・・・。
扉は閉じられるのか、あるいは更に開かれるのだろうか...
行ってみれば何かが分かるのだろう。
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ダキニに魅入られたような、
「死」と隣り合わせにあった意識も最近は随分回復に向かった。
「浄化願望」はまだ続いているが、ここ数日肉の類を食す傾向が強くなった。
体力をつけるために。「ダキニ」への供物のように。
これも一種の「ダキニ効果」なのだろうか?
八朔ながら思うことがある。
秋の棚田の月を。
「田毎の月」で有名な更埴市もまたこのライン上にある。
(by R)