第四話

「狐の学校〜1月14日の夢〜」
(其の一)

(1)

 小学校の机の上に一冊の百科事典がある。百科事典は隣の席の男の子のものだった。
女子校だというのに「男の子」がいるはずはなかった。しかし、そこに「男の子」は確かに存在した。

 比奈子の小学校は渋谷の丘の下にあった。自宅はその丘の上にあって、坂を転げるようにして、学校に通う。

「裏側から入ることができればすごく近いのに」と比奈子はいつもそう思う。

 小学校にはなぜか「裏口」がなかった。らしきものもなかった。
丁度比奈子の家から降り立ったT字路の突き当たりに、古ぼけた石の鳥居がぼんやりと見えるだけである。張り巡らされた石の垣根は必要以上に高く伸び、強固なものだった。
表門にようやく辿り着いてもまた、古い階段を数十段上らなければならない。
苔むし、段が欠け、傾いた古い階段は子供たちの足元をつるつるとおびやかす。
そう易々とは「学校」に行けないのである。天気の悪いときは尚更だった。

 この学校は奇妙だった。古いだけではない。
階下両脇に狐の狛犬のようなもの、さえある。
鬱蒼とした森に囲まれ、ここに迷い込んだものは誰しもすぐに「学校」とは気づくまい。まるで稲荷神社のような体裁なのだ。
この森を遠めに見た私も初めは「神社の森」がある、と思っていた。
あの子らを見るまでは・・・。

 夕方近く、紺色のセーラー服に紅紫色のリボンのついた制服、友布の四角いリボンのついた帽子。四角い「学生かばん」のようなランドセルを背負った制服姿の女の子たちが大勢その「神社の森」から現れる。
その光景を目の当たりにようやく小学校なのだと認識する。

                    ★ ★ ★

 私は比奈子の母と友人だった。比奈子の母は小説家で私生活を明かさない人だった。
ある日、私は彼女を訪ねて出かける機会があった。携帯に電話をする。

「もしもし、お話したいことがあって・・・」
「・・・それでしたら、自宅の方に。」と初めて彼女の自宅へ呼ばれる。

 普段はどこかしらの喫茶店で、ということが多いのだが、留守にできないようである。
たまたま、宇田川町に新しく開業した友人のオフィスに顔を出していた。
「ちょっと、出かけてくる。」
私自身、本来はフリーのプランナーであるが、最近、忙しくなった友人の会社も手伝っている。SP事業がメインの会社である。打合わせも多い。

 その日の打合せは夕方からもあったため、「ほんのちょっと外出」とホワイトボードに書き込む。
「近所?だったら社用車使っていいよ。」
社用車とはいうものの、自転車である。
物好きな友人だから、いわゆる「ママチャリ」とは核を奏している。
ものがいい。今様な外国産の自転車らしい。
切替がついた自転車はこの界隈では有難い。
渋谷は本当に坂が多いのである。

 電話で聞いた彼女の自宅は意外に近く、友人のオフィスから3分とかからない場所にあった。銀色の自転車を道路わきに止める。本体とタイヤの両方に鍵をかけ、ワイヤーをマンションのフェンスに巻き付けた。
 郵便受けの「河見」という名前はすぐに見つけられた。編集者向けにわかりやすくしてあるのだろう。大き目の文字で記されている。「河見」とは彼女のペンネームである。
チャイムを鳴らす。オートロックである。
河見が出た。

「あ、不破ですが・・・」
「ああ、いらっしゃい。早かったね。まだ片付いていないけど・・・上がってきて」
河見の部屋は11階だった。1102号室。

「ごめん。まだ仕事終わってなかった?意外に近くて、」
河見は「仕事をしている」というより、食事の用意をしているようだった。

「食事の用意してたの?」
「そう。急にお客が来るかもしれなくなって。
でも、気にしないで、上がって。ちょっと待っててね。」
忙しそうだ。出直そうかな。
「・・・子供がね、まだ帰ってこなくって・・・」

 え?子供なんていたの?驚いたわたしの顔をみて、
「そういわなかったかしら。女の子がね。戻ってきたら、落ち着くんだけど。」
「そうなんだ。ごめんなさい。そんなに急いでいたわけじゃないんだけど。」
河見は紅茶を勧めながら、「平気よ。ちょっとくらい。」といいながらも少し青ざめた顔をしていた。いつもの河見と違う風貌だった。

 わたしは旅行雑誌のタイアップ記事の企画を持ち込んでいた。
今回は地方の伝承とか、信仰に焦点を絞った企画で。
その全容をそれとなく話すと、そう詳しい話をする前に
「いいわよ。おもしろそう・・」と簡単に引き受けてくれた。

 青ざめた顔も見間違いだったかのように河見の顔が華やいだ。
元来綺麗なガラス細工のような顔立ちをしている。
作家ということも手伝ってのことか、色が極めて白い。
本人の顔色も周囲の色を映し出すかのようである。

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