僕はこの店が殊のほか好きだった。
「知らないはず」の過去への愛おしさがたまらないのだ。
いわゆる普通のアンティークショップとちがうところは小さなカウンターカフェがあるところ。
華宵の絵に出てくるような女性が愛らしく振舞う。白いエプロンをつけて。
最初は彼女たちが目的だった。誰だってそう思うだろう。
でも、僕はある日変わった。

そういう表面的なものでは到底感じられない「深い何か」に出遭ったような空気を感じたからだ。
ここを訪れる人々はどこか懐かしい気配を伴って現れる。ある種の空気感を共有するように。
やがて僕も「常連」という言葉がしっくりくる「仲間」に自ずと受け入られた。
僕の空気感が彼等と同じ時代を経たように変わった瞬間だった。
そこに並ぶ古き愛情に。そこに集う仲間たちに。僕は愛情を注がずにはいられない。
学生時代の僕の記憶はこうして甦る。

*

 その日も僕は午後からの講義をさぼってここに来ていた。
 からん、からん、と煤茶けたドアを開ける。「やあ、いらっしゃい。」主がいう。
「あら、いらっしゃい。」主の戦友という女性が繰り返す。いつも同じように迎え入れられる。
心が休まる。ほっとする。それは古いインクのにおいか、カビ臭い繊維の数々か。
或いはコーヒーの香りか。その時折に応じて僕の鼻はそのときに相応しい香りをそこに見出す。
数々の「懐かしい」香りは僕に自分の「存在」を確認させる。「在る」ということを。
そして次第に心が落ち着くのだ。ああ、今日も僕は「居る」。ここに「居る」。
「コーヒー」僕はぶっきらぼうにいう。まだ若かったのだ。

主はやれやれという顔をしながら、「また授業さぼってきたのだな?」
「まあ、仕様がないわね。私なんて勉強したくっても出来なかったのに。今の人が羨ましいわ。」
淹れたてのコーヒーが雰囲気を和らげる。猫舌の僕は湯気を飲みながらその場に溶け込むようにしていく。彼等の対話が心地いい。今日はまだバイトの女の子もいない。
主は遠い目をして窓の外を見つめながら、
「・・・そうだな。読みたい本があっても読めない時代だったからなあ。」という。
ハタキをかけていた古い本を手にとっていとおしそうに眺める。
「僕等の時代はまだ文盲の奴だって多かったし、本なんて中々手に入るものじゃあない。
今の奴らは恵まれているよ。」独り言のように呟く。
僕はそこにいるのがどんどん居たたまれなくなってくる。

「まあ、いいじゃない?わたしたちはあの時代を選んで生まれてきたんだから。ねえ。」
え?選んで?何故。
「そうだなあ。僕等はあの時代を選んで生まれてきたんだものなあ。・・・でも本があったらもっと素敵だったと思わないかい?」
主はハタキをかける手を止め、戦友をいとおしげに眺める。戦友はカウンターの中で洗い物をしている。

「あのう、店長さんと、おばあさんはご夫婦ですか?」

この店を訪れるようになって幾度目だったろう。僕は聴いてみた。自分の何気ない疑問を。

 

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