「あらあら、そう見える?」

戦友は嬉しげに華やいだ。主は照れ臭そうにカウンターにやってきて、僕の手を二度ほどぽんぽんとしてから、いつもの彼の席に戻った。カウンターからは見えない店主の席。赤いバンケットが鮮明に映る。
「違うのよ。わたしたちは互いに別に連れ合いがいたの。」
戦友が話し始めた。僕は聞いてはいけないことを聞いてしまったような気持ちに捕らわれながらも
好奇心のままにまた聞いてしまう。
「じゃあ、恋人同士だったんですか?」
「そうね。それはそうかもしれないし、そうでなかったかもしれないわね。
 お互いに好意をもっていたことに変わりはないけど、互いの家庭を大事に思う気持ちを大切にしたかったから。」
珍しく他のお客もいない。僕はこの二人の老人に甚く興味を抱かずにいられなかった。

「微妙な関係ですね。」
「微妙な関係ね。」戦友は繰り返す。
「時代が時代だったから。私たちは互いの家族を亡くしていたと思い込んでいたのよ。
そういう状況で出遭ってしまった。」
「そういう状況で?」
「そう。互いの哀しみを手紙に託して、互いの懐に温かさを感じて、
知らず知らずのうちに思いは募っていったわ。」
主は寝ているのか、起きているのかわからない。
戦友はなぜか僕に二人のことを話したがっているように思えた。誰かに自分たちの「証」を残したいと。二人の「証」を留めたいと。僕にはそう思えた。
「手紙ですか?」
「そう。手紙。今の人のように電話もファックスもましてやメールなんてなかった時代だし、
手紙を出すということだって勇気がいた時代よ。でもね、お互いの気持ちを確かめずにはいられなかった。」

主の方を観る。彼は黙ったまま、そのまま動かずにいた。
「私たちはある人の紹介で会ったの。紹介といってもその他大勢いたわ。
戦後、生き残った若き男女が知合い、恋に落ちていくということはどこにでもあったこと。
なにか現実逃避をしたい、という気持ちから私も友人の誘いに応じたわ。
ただ、大勢の中で、なにかが私たちに、私たちだけに金属音のような響きを与えた。
会った瞬間よりも日に日にその響きは増してゆくの。・・でもね、片思いだと思ったわ。だって彼には家族がいるのは明白だったし、私も家族を持っていた。生きているか死んでいるかってことも勿論重要だけど、それ以前に互いに所帯持ち、ということはそれ以上は望んではいけないことだったの。」
彼女のことを主は「わしの戦友だ」と僕にいったことがあった。
僕はその言葉の真意を知らない。ただ、なんとはなしに「戦友」と思うより仕方なかった。
「そして、私たちは再び出会ったの。自分でも顔が華やいでいくのがわかったわ。
彼も私のことを覚えてくれていた。」

*

「いやあ、先日お会いしましたね。Mさんのパーティで。
失礼ですがお名前を伺っても宜しいですか?」
主は意外に積極的に彼女に接した。そしてまた彼女も。
「秋野十子」と申します。アナタは?
「谷井一樹」といいます。
二人が互いの思いを知るまでにそう大した時間は有しなかった。
ただ「世間体」というベールが互いの思いにグレーの布をかけただけ。
グレーの布は一枚の紙によって、白と黒に分けられ、はっきりとした気持ちが露出する。
「あのお、僕としてはまたアナタにお会いしたいのですが、互いに家庭をもつ身。
もし宜しければ手紙の交換などいかがでしょうか?」
一樹は女性に対してそのような提案をしたことなど一度もなかった。ただ、この出会いをこれっきりにしたくない一心でそう伝えた。

 

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