十子は意外に簡単に承諾した。一樹は逸る気持ちを胸にほぼ毎日のように十子に手紙を出す。
一樹自身、自分の気持ちがこれほどまでに深く愛情に満ちていたことに驚きを感じていた。
一樹の「手紙」という提案は二人の関係に明らかに「意味」を見出した。
二人の愛情はどんどん深みに入る。哀しみを和らげる、という必要は全くないに等しいほど、
二人は愛し合った。手紙の上で。互いの気持ちを確認しあって。それは肉体を超えた誰にも立ち入ることのできない深い関係になっていった。
それぞれの家族が、夫が妻が見つかったときにも二人はそう動じなかった。

「私たちは互いの人生を思いやることに長けている。どこにもいない最良の恋人だわ。」
「そうだね。僕等は互いの人生に立ち入ることなく互いを最上の愛情で包みこむ、
そんなことが可能な唯一の恋人かもしれない。僕は一生君を誇りに思うよ。」
「いつかね、ふたりでお店をやりたいわ。あなたの好きなギャマンをいっぱい天井から吊るして。」
「いいね。いつかお店をやろう。僕の宝物に君を交えて。君も僕の宝物だからね。
そこには絶対必要なんだ。」
「じゃあ、私はとびきり美味しいコーヒーとガレを作るわ。カウンターカフェがお客様を温かく迎えるの」

一度きりの電話で二人はそう互いの思いを確認しあった。そして、「手紙」は終止符を迎えた。
それから、30年の月日が流れ、二人は再会する。互いの気持ちにほんのわずかの濁りもなく、
気持ちを確認しあう。昔の約束を携えながら。
「覚えていたんだね。僕はちょっと自信がなかったんだ。君にもう一度会えるなんて。」
「覚えているに決まっているでしょ?私たちは一生の恋人なんだから。・・・ただ、時間が短いの。
そう、心はあのときのままだけど、身体はもう老いてしまった。限られた時間しか残っていない」
十子は癌に蝕まれていた。脳下垂体から広がった癌は既に骨髄の中まで侵食しようという勢いだった。
「わかった!すぐに僕等の夢を叶えようじゃないか?」
なにも躊躇することはなかった。一樹はすぐに家を出た。家族には「一年足らずで戻る」と言い残して。十子も家を出た。「最後の時間を過ごしたい人がいる」と言い残し。

*

「ところがね、おかしな話なのよ。彼と暮らし始めて間も無く私の癌はどこかに消えうせたの。
下半身付随になる、なんていわれていたのに、この通りよ!」
戦友は笑った。一年足らずで二人は家に戻れるはずもなく、互いの人生を友に歩むことを決心していた。家族には「我侭を許して欲しい」という手紙だけしたためて。
僕が初めて彼等に会ったのは彼等が互いに暮らし始めて3年も過ぎた頃だったようだ。
寝ていたように見えた主がふと声を漏らした。
「感謝しているよ。戦友には。彼女がいなかったら僕の人生はなんと味気なかったことかって、
思うよ。歳をとって再び会えた時だって、全然思いは褪せていなかった。まあ、君にこんなこといったって笑われるだけかもしれないけどね。」
「まあまあ。そんなことないでしょ?彼だって、いい恋愛ができるわ。
いい感性をもっているもの。恋愛に一番大切なのは相手を思い遣る気持ちと、そこから生じる
世界の美しさを認識するこころ。美しいのはそのものではなく、そう感じる心なんですもの。」

*  *

久しぶりにお気に入りの店のドアを開ける。
老人となった主の脇に彼女の軽やかな笑い声はなかった。
ただ、サイフォンの湯気の中に彼女の笑顔の写真がぼやけて見えた・・・。

FIN

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